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sanin2010 その7日目 

2010年05月04日(月) 萩と秋吉台

今日はまず萩市街を散策、秋吉台を経由して下関までの予定。
バイクと荷物を預けて徒歩で散策。萩YHさんは萩城址の一画に建っています。
吉田松陰先生と高杉晋作さんですね。
萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城です。城址は今は指月公園(しづきこうえん)となっています。見学は大人\210-。
明治7年(1874)天守閣などの建物は全て解体されましたが、石垣と堀が昔の姿を残しています。
今はなき天守閣のあと。
指月公園にある志都岐山神社です。萩藩歴代藩主が祀られています。
公園(城址)の出入り口は「枡形」といいますか「鍵の辻」といいますか。敵の速やかな侵入を阻む構造ですね。
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(きゅうあさもうりけはぎやしきながや)。有料ですが、萩城址の見学とセットです。
毛利元就の五男、元秋を始祖とする厚狭毛利家のお屋敷で、この長屋は安政3年(1856)に建てられたものです。
母屋などは維新後に解体され長屋のみが残っています。
萩城の再現模型ですね。奥が指月山の山城、手前が平城の構造が良くわかります。
市街をぐるりと散策しましょう。
ここは天樹院墓所。萩藩を創設した毛利輝元公の墓所。もともとここは輝元公の隠居所(四本松邸)で、輝元公亡き後に天樹院という菩提寺が建てられましたが維新後に廃寺になったそうです。
つぎに旧毛利家別邸表門。建築年代は明治時代、14代藩主・毛利元徳が鎌倉材木座に建てた表門。大正10年(1921)市内に移築され、昭和49年(1974)現在地に移築されたものです。
こちらは旧周布家(すうけ)長屋門。江戸時代中期の代表的な武家屋敷長屋の様式を色濃く残した長屋門です。
中庭の建物も見学できます。
近くに旧益田家物見矢倉があります。北の総門からの人の出入りを見張り台(物見)と武器を収納する倉(矢倉)兼ねたもので、物見矢倉と呼ばれていました。
生垣のそこここに夏みかんの木が植えられいてます。美味しそうな夏みかんの実がなっています。
萩城の北口を守る北の総門。高さ7mの高麗門です。これは平成16年11月「萩開府400年」を記念した際に復元されたものです。
萩博物館の手前に銅像あり。
「田中大将像」とあります。陸軍大将で、昭和2年(1927)第26代内閣総理大臣となった田中義一先生です。
菊屋横丁の菊屋家住宅。菊屋家は藩の御用商人を務めていた豪商です。
400年の歴史があり、本陣としての役割も持っていました。
お向かいに旧久保田家住宅。久保田家は呉服商・酒造業を営んでいました。
旧久保田家住宅の主屋は、屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」を持ち、立ちが高いのが特徴です。
なまこ壁美しい菊屋横丁を南へ。
菊屋横丁は日本の道100選に選定された横丁です。
横丁には「田中義一誕生地」があります。
こちらは高杉晋作誕生地。レンタサイクル、多いです。自転車で廻ったほうが良かったかな。
さらに木戸孝允旧宅。幕末維新の三傑の一人、木戸孝允の生家です。木戸孝允は桂小五郎・木戸貫冶とも。孝允は「たかよし」とも「こういん」とも呼ばれます。
維新の
三傑
木戸 孝允
西郷 隆盛
大久 保利通
青木周弼(あおきしゅうすけ)旧宅。幕末当時、日本屈指の蘭学医でもあった青木周弼が生まれ育った家です。
木戸孝允旧宅・青木周弼旧宅は江戸屋横丁にあります。
円政寺も江戸屋横丁に。高杉晋作や伊藤博文が勉学に励んだ寺として知られています。
あ、ここにも夏みかん。
城下町を時計回りに廻って、堀内に戻ってきました。で、平安橋。
萩城三の丸の3つの総門(北・中・平安古)のひとつ、平安古(ひやこ)総門の外堀に架けられた石橋で、明和年間(1764-71)の創りのようです。
近くには平安古総門跡の碑があります。
平安古の総門近くに旧児玉家長屋門。
現存する長屋門は、桁行32.67m、梁間4.59m。広いお屋敷のごく一部です。
ここは堀内鍵曲(ほりうちかいまがり)。鍵曲とは、鍵の手に曲がった通路で、戦いの際見通しを悪くして、敵の侵入を防ぐために造られたもの。堀内地区は三の丸にあたり、藩の諸役所や、毛利一門や重臣の武家屋敷が並んでいた場所です。ここでも夏みかんが見られますね。
鍵曲の先に口羽家(くちばけ)住宅。口羽家は毛利氏の庶流で、現存する屋敷として最も古いものです。
その表門は江戸桜田の藩邸の門を下賜されたもので、萩に現存の門では最大規模を誇ります。
萩藩永代家老・福原家の旧福原家萩屋敷門。門の形式は腕木門で、両袖に潜り戸がついています。
堀内地区にある延長231.7mの堂々たる土塀は、問田益田(といだますだ)氏旧宅土塀です。
このあたりは、白塗りの土塀を巡らせた萩藩重臣の屋敷が建ち並んでいた風景を、今も残しています。
ぼちぼち昼食にしましょう。菊ヶ浜の海岸通りにあるレストラン、その名も「海岸通り」さん。
オムライス ハンバーグ セットで\1,050-。
食後、海岸通から菊が浜海水浴場に。
正面が萩城址・指月山。
蒼い海に白いヨット。初夏を感じさせますねぇ。
萩YHさんに戻って、荷物とバイクをピックアップ、次の立ち寄り処へ。
吉田松陰先生の松陰神社。明治23(1890)年に吉田松陰先生を祀って建てられました。
「親思ふ こころにまさる 親ごころ 今日の音づれ 何ときくらん」
松陰先生が安政6年(1859)、家族に宛てた遺書の中で詠われた有名な和歌です。
境内には松下村塾が残されています。
いや、逆です。明治23年(1890)、松下村塾があった地に松陰先生の御霊を祀る土蔵造りのほこらが建立されたのが始まりです。現在の社殿は昭和30年(1955)に建立されたものです。
床の間には先生の御尊影。
松陰神社の御祭神は「吉田矩方命(よしだのりかたのみこと)」、号は「松陰」「二十一回猛士」などなど。旧社殿は松門神社として、42柱の門下生が祀られています。
萩からR490で秋吉台(あきよしだい)へ。
えー、「天然記念物」と「特別天然記念物」が並んでるんスか。「天然記念物」が古びていて、後に指定されたのか「特別天然記念物」のほうがフレッシュな感じです。
「火星に着陸した調査船」ではなく、展望台。展望台から俯瞰してみましょう。
「カルスト台地」ってヤツですね。
石灰岩のまにまに背の低い植物が茂っています。
そして秋芳洞(あきよしどう)へ。正面入口・エレベータ口・黒谷入口と3ヶ所ありますが、ここはエレベータ入口。ここだと駐車(駐輪)料金が無料。
秋芳洞入洞料金表
  大人 高校生 中学生 小学生
個 人 1,200円 1,200円 950円 600円
エレベータで下りてきました、秋芳洞。
エレベータ口は秋芳洞の中ほどにありますから、一度正面入口のほうに下りていって引き返します。
こんな感じ。
正面
入口
←エレベータ口←
 → → → → 
黒谷
入口
天井から石灰質のツノが。「傘づくし」と命名。
地底には滝もあります。
テーブル状の石灰石です。「百枚皿」と呼ばれます。
正面入口が見えてきました。
一度外に出て、今度は黒谷入口を目指します。
エレベータ口への分岐をすこしすぎたところ、洞内でも一番のみどころがあります。高さ15m直径4mの「黄金柱(こがねばしら)」です。
もうすぐ黒谷入口、エレベータ口に引き返します。
エレベータ口(下)に到着。
戻ってきました、エレベータ口(上)。見学に要した時間はざっと1時間でしょうか。もうすぐ16時です。宿に向けて移動しましょう。
1720下関に到着。下関市火の山YHに宿泊。
居室は全室海峡ビュー、素敵な眺めです。関門橋(中国自動車道)が見えます。
関門海峡が一望です。
火の山YHは「夕食なし」なので、お勧めのお店を聞きました。ここ「キャプテンはる」さんがお勧めのお店。
R9沿いです。この看板が目印。
いただいたのは焼き魚定食(\1,575-)。「YHで聞いてきました」って言うとおかわりokらしい。
とっぷり日が暮れて、関門橋が浮かびあがります。
対岸の門司の夜景ですね。
本日の宿泊
下関火の山YH
宿泊 \3,200
夕食 なし
朝食 \630
CreditCard
共和国・友好国 ×
走行距離 117.9km
備考  

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